東京高等裁判所 平成7年(う)397号 判決
論旨は,要するに,違法な現行犯逮捕による身柄拘束中に被告人に対する強制採尿が実施されたものであるから,同尿中から覚せい剤成分が検出されたことを内容とする鑑定書の証拠能力を否定すべきであるのに,原審が,右現行犯逮捕手続に軽微とはいえない違法があり,続く強制採尿手続も違法の瑕疵を帯びると認定しながら,本件鑑定書を証拠として採用して有罪の認定をしたのは,判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反にあたる,というのである。
そこで,原審記録を調査し,当審における事実取調べの結果をも併せて所論の当否について検討するに,原審が本件鑑定書の証拠能力を認めたのは,次の理由により,結論において正当である。
1 原判決挙示の関係証拠及び当審証人Mの証言によれば,事件の経緯は,概ね,次のとおりであったと認められる。
(1) 平成6年8月7日午後8時10分ころ,警視庁N警察署地域一係所属のM巡査ほか1名は,パトロールカーに乗車して警ら中,東京都A区内の環状7号線のT交差点で,運転者のみが乗車するSナンバーの白色乗用自動車(車名「リンカーン」,以下「本件自動車」という)が赤色信号に従わずに交差点内に進入するのを現認し,直ちに,車載のマイクでその運転者に対して停車するよう呼びかけたが,同車がこれに応じずに走行を続けたため,パトロールカーの赤色灯を点滅させ,サイレンを鳴らして追尾を開始し,その後間もなく赤色灯の点滅やサイレンの使用を止めて追尾を続けた。また,同巡査らは,当日朝,警ら勤務に就く前に,上司の係長から,「Sナンバーの白色リンカーンが管内を走り回っており,パトカーが近づくと逃走する。停止命令にも応じない。物損事故を起こして逃げている。覚せい剤を使用している疑いがある。」などという申し送りを受けており,追尾中,本件自動車がそのナンバーの車であることも確認した。
(2) 本件自動車の運転者は,同区××丁目付近で,運転席の左窓から,ゴルフクラブやジャッキのハンドルを道路脇に投げ捨てるなどの異常な行動をした後,付近の都営住宅4号棟の前で同車を停め,M巡査らの乗車するパトロールカーも,本件自動車の後方約10メートルの地点に停車した。
(3) 本件自動車の中から,ピンク色のTシャツ,灰色と黄色のチェックのズボンを着用したやせ型で30歳くらいの男が出てきて,キーで同車のドアをロックした上,都営住宅4号棟の階段を上って行った。M巡査らは,当日朝の申し送りの内容や男の前示の異常な行動等に照らし,同人が覚せい剤中毒者である疑いがあり,職務質問を実施するについても万全を期する必要があると考えたことから,無線で応援を要請し,その後直ちに男を追ったが,姿が見当たらず,4号棟裏のフェンス内側などを捜したところ,ほどなく4号棟とその左隣りの5号棟の間付近のフェンス外側に前示の着衣等の特徴が一致する被告人がいるのを発見した。M巡査は,その着衣等の特徴から,被告人が信号無視をした本件自動車の運転者であると判断し,「ちょっと待て」と声をかけたところ,被告人が反転して環状7号線の方に向かって逃げだしたため,これを追跡した。同巡査は,環状7号線路上で被告人に追い付いたが,被告人が「何で捕まえるんだ,何もしていない。」などと言ったことから,「信号無視だ,逃げると逮捕する。」と告げ,無線機を使って応援要請をするうち,被告人が同巡査の手を振り払って逃げだしたので,組み付いて制圧し,被告人を信号無視による道路交通法違反の現行犯人として逮捕した。
2 (中略)
3 原判決は,M巡査らが前示のとおり追跡して一旦見失った本件自動車の運転者と逮捕した被告人との同一性が認められないとして,本件現行犯逮捕手続が違法であるとの結論を導いているが,この判断は首肯することができない。
すなわち,原判決は,M巡査の原審証言中,同巡査が本件自動車の後方約10メートルという至近距離に停車して男が車から降りる様子や着衣を目撃したという点は,そのような至近距離から目撃していながら男を見失い,しかも,警察官が2人もいながら無線で応援を要請していたためにみすみす男を取り逃がしているという余りにも緩慢なその後の処置に照らして信用し難く,また,マイク,赤色灯,サイレンなどを用いて本件自動車を追尾したが,車はこれに応じずに走行を続けたという点も,男が本件自動車から降りてドアをロックするという余りにも余裕がある行動をとっていることに照らして信用し難いと断じている。しかしながら,同巡査は,男が覚せい剤中毒者であるとの疑いを持ち,前記の経過からみてその疑いには相当の理由があったばかりか,男が都営住宅4号棟の階段を上るのを確認し,その所在を一応把握していたのであるから,これを直ちに追跡することなく,不測の事態に備えて先ず応援の要請をしたのは,決して不合理とはいえない。しかも,男が上って行った都営住宅4号棟の階段は,一旦上った後,反対側へ下りて外にも出られる特殊な台形状の構造になっており,男は,反対側から外へ抜け出たものと推認されるが,当時M巡査らはその構造を知らなかったのであるから,一旦男を見失ったことを根拠として同巡査のこの点に関する証言を不自然なものということはできない。また,男が車を降りてからドアをロックした点も,ロックはごく短時間でできる上,M巡査らは,追尾後間もなく赤色灯の点滅やサイレンの使用を止めており,停車時には緊迫した状況にはなかったのであるから,不自然ではなく,その点を根拠としてマイク等を用いて停車を命じたという同巡査の証言を信用できないものと即断すべきではない。同巡査の証言の信用性に関する原判決の説示は合理性を欠き,これを支持することはできない。
そして,夜間とはいえ,周囲の照明等の目撃条件は良好であり,かつ,M巡査は,警察官の当然の職務として追跡してきた人物の特徴を掴むために注意力を集中しつつ,本件自動車を運転していた男が車から降りてドアをロックした後,都営住宅の階段を上って行くのを近くのパトロールカーの中から目撃したというのであるから,その間,顔までは視認できなかったものの,前示の着衣の顕著な特徴のほか,男の体型及びおおよその年齢などを十分把握することができたという証言は,これを十分信用することができる。
そうすると,本件自動車から降りた男の特徴と前記都営住宅の近くでほどなく発見した被告人のそれとが合致していたところから,M巡査がこれを同一人であると判断したのは正当であり,被告人に対しては道路交通法違反の被疑事実による現行犯逮捕の要件が存在していたというべきである。
4 所論は,さらに,本件道路交通法違反の事実は,軽微であって身柄拘束の必要はなく,本件逮捕は,専ら覚せい剤使用の事実について被告人を取り調べ,又は,被告人の尿を採取するために行われた違法な別件逮捕であると主張している。
しかしながら,前示の経過によれば,道路交通法違反の被疑事実により被告人を現行犯逮捕する理由と必要性があったことは明白である。また,本件強制採尿手続についても,現行犯逮捕後,被告人の言動や外観等から,覚せい剤使用の嫌疑が生じ,被告人が尿の任意提出に応じようとしないため,捜索差押許可令状の発付を得て病院で医師により採尿が行われた経緯が認められるのであって,前記M巡査らが,令状主義潜脱の意図の下に,覚せい剤使用の事実の取調べや採尿のために,被告人を現行犯逮捕したような事実はないと認められる。所論は採用することができない。